● エーリッヒ・シャーケ(著)渡辺一男(訳)(2002)『ヒトラーをめぐる女たち』 TBSブリタニカ
★ ヘレーネ・ハンフシュテングル(Helene Hanfstaengl)
◆ (p.70) 「ヘレーネ・ハンフシュテングルは、1924年12月20日、ヒトラーが予定より早く出所するのを待ち構えていた。彼女はクリスマス・イブにヒトラーをミュンヘンのヘルツォーク公園の近くにある新しい邸宅へと招いたが、そこにハンフシュテングル一家は引っ越していたのだった。ヒトラーは招待主と3歳のエゴンのために、クリスマス用の特別なびっくりプレゼントを用意していた。ヒトラーはプレゼントを疲労する前に、古い友人であるエルンスト・ハンフシュテングルにピアノで〈トリスタンとイゾルデ〉の〈愛の死〉を演奏してくれるようにと頼んだ。・・・食事が済み、クリスマスのプレゼント交換が終わると、ついにびっくり箱が開けられた。アドルフ・ヒトラーはクリスマスのアトラクションとして考えた演し物(だしもの)で家族を喜ばせた。兵隊よろしく部屋の中をあちらこちらと行進し、それに合わせて第一次世界大戦時の戦闘音を真似てみせた。ドドーン、バタンバタンと大砲が響き、パンパン、ヒューッと銃声がした。ハンフシュテングル一家はあたかも塹壕のすぐ前に座っているかのようだった。クリスマスツリーの下から機関銃の一斉射撃が聞こえ、曲射砲と迫撃砲の音がした。ヒトラーは大砲が発射される音、その砲弾がうなりをあげて空を切り、そして着弾するときの爆発音を完璧に再現することができた。さらにフランス製、イギリス製、ドイツ製でそれぞれ異なる銃砲音を出すこともできた。」
◆ (p.72a) 「あるときヘレーネ・ハンフシュテングルとアドルフ・ヒトラーのあいだで、ヘレーネにとってはかなり不愉快な思い出として残ることになった一件が生じた。一方ヒトラーは、この件をおそらくきわめてエロチックだと感じていた。ヒトラーはこの晩、ハンフシュテングル家を訪れ、夜遅くまで彼らとともに居間に座っていた。それからエルンストは、ヒトラーのタクシーを呼ぶために数分間家を離れた。ヒトラーはこの時間を利用して、ヘレーネの前に跪いた。彼女の足元に身を投げ出して、自分を彼女の〈奴隷〉だと言い、彼女と出会ったのがあまりに遅すぎたことがなんとしても口惜しいと嘆いた。ヒトラーがこの〈甘く切ない体験〉を述べ立てている一方で、ヘレーネはヒトラーを立ち上がらせようと必死だった。これは、夫のエルンストが戻ってくる前にかろうじて間に合った。」
◆ (p.72b) 「ヒトラーが帰宅すると、もちろんヘレーネは夫にたったいま起こったことを語った。しかしエルンストは事態をそれ以上悲劇的にはとらず、『あの哀れな男は、罠に落ちた獣のように孤立しているものだから、ときおり恋に焦がれるミンネゼンンガー(中世の宮廷恋愛叙情詩人)の役を演じたい衝動に駆られるのさ』としか言わなかった。この晩ばかりはハンフシュテングルも、ヒトラーがヘレーネに夢中になっているのだと思った。だがそれから数年のあいだに、彼は数多くの似たような場面を目撃することになった。ヒトラーがあらゆる機会をとらえて女性に大げさな花束を贈ったり、手の甲にキスをする場面に居合わせたのである。時が経つにつれて、ハンフシュテングルは、この奇妙な振舞いはやはり〈エロティックな願望〉とは無関係で、まったく別の形式の快楽、すなわち自己演出という快楽に関係しているという結論に達した。ヒトラーは〈機能的不全〉である、つまり女性ではなく、自身の弁舌のみが高度の興奮をもたらすのだ、とハンフシュテングルは考えた。ヘレーネもこの見解に同意した。彼女はのちにヒトラーについて『彼は絶対的に中性であり、男性ではない』と述べた。」
