20081002

レニ・リーフェンシュタール

エーリッヒ・シャーケ(著)渡辺一男(訳)(2002)『ヒトラーをめぐる女たち』 TBSブリタニカ





レニ・リーフェンシュタール(Leni Riefenstahl)・・・(pp.283~310)

(p.284a) 「彼女はナチス党の党員にはならなかった。だが抵抗もしなかった。彼女は映画を作り、その映画はナチズムを賛美するものであった。だが芸術的には最良のドキュメンタリー映画の一つとみなされた。」

(p.284b) 「レニ・リーフェンシュタールは前世紀の初頭、1902年8月22日にベルリンで生まれた。子供のときから、一般に獅子座の特性とされるものすべてを発揮していた。すなわち活力、野心、頑固さ、それに加えてある種の虚栄心と際立った自己演出の傾向である。すでに4歳のときに舞踏家になろうとした。幼い少女時代にベルリンのティーアガルテンの中をローラースケートで走りまわり、息を呑むようなジャンプをやってのけた。もちろん見物人のいる前で。・・・」

(p.284c) 「レニ・リーフェンシュタールとエーファ・ブラウンの少女時代にはかなりの類似点がみられる。エーファと同様にレニもまたバレエに夢中だったし、とても乱暴な子供だった。ふたりとも芝居をするのが好きで、いつかは舞台に立つことを夢見ていた。思春期になるとレニは、バストを大きく見せかけるために、ストッキングをブラウスの中に突っ込んだが、これはエーファ・ブラウンが同じ目的のためにハンカチを使ったのに似ている。レニは人形で遊ぶ代わりに飛行機の絵を描いた。レニとエーファの父親は双方ともに、控えめに言って、癇癪の傾向があったにもかかわらず、娘はふたりとも父親に強く結びついていた。」



(p.289) 「レニの男性に対する関係は、両親の影響を受けて形成されていた。『わたしの母はすばらしい女性だった。しかし母は父の奴隷になっていた。母は父を愛していたが、ひどい苦しみを体験しなければならなかった。わたしは母に同情した』。レニの将来は母親と同じであってはならなかった。『わたしの自立への願いはますます強くなった。母が父からどのように扱われているかを見ていると、たとえば父は糊のきいたワイシャツの襟からボタンをうまくはずせないと、象のように足を踏み鳴らすことがあったが、そんなときわたしは、自分の将来の人生においてはけっして主導権を手放すまいと心に誓った。わたし自身の意思だけに決定させるのだ』」

(p.291) 「1932年2月、・・・彼女は生涯で初めて政治集会を訪れた。アドルフ・ヒトラーがベルリンのシュポルト・パラストで演説をしていた。この事件が自分に及ぼした影響を、レニは次のように描写した。『奇妙なことに、わたしはすぐさま黙示録のような、けっして忘れることのできないヴィジョンを得た。あたかも目の前の地表が押し広げられるかのように思われた。それは突然真ん中で二つに割れて、そこから巨大な水が奔流のごとく、弾き出される半球のようだった。その水の噴出はすさまじく、天に達して、地を揺るがすかと思われた』。数千人の聴衆と同様に、レニ・リーフェンシュタールもまた抗いがたい吸引力に呑み込まれ、引きさらわれるがままになった。力と成功を約束するその印象深い演説者は、レニのなかで生々しい記憶として残った。」

(p.294) 「そこでレニはヒトラーの話を聞くことになった。『公益は私益に優先する』。この文句はレニの〈心の奥底までこたえた〉。のちに彼女はこう書いた。『それまでわたしはとりわけ個人的な利害を考えてきた。そして他の人々について考えることはほとんどなかった。わたしは実に利己的に生きてきたのだった。わたしは恥ずかしく感じて、この瞬間には他の人々の犠牲になってもいいと思った。あるいはそう感じたのはわたしだけではなかったかもしれない。もしかしたら、大多数の人々がこの理由によって、ヒトラーの暗示の魔力から逃れることができなかったのかもしれない。演説が終わると、わたしはできるだけ早く家に帰りたいとしか考えなかった。それはほとんど逃亡だった。わたしはわたしの自主性を脅かしかねない何かに巻き込まれたくなかった』。レニ・リーフェンシュタールはほんの少しだけヒトラーの暗示能力に屈した。が、その後、自立を求める芸術家精神が戻った。」

(p.307) 「1944年3月末にレニ・リーフェンシュタールはヒトラーと会ったが、これが最後となった。レニ自身はいつも、善良なヒトラーと邪悪なヒトラーを区別していた。ヒトラーの〈人種差別的な理念〉を彼女は拒絶したが、人間としては礼儀正しく、好感がもてると感じていた。そもそも初めから彼女は、この男が発散する〈魔術的な作用〉に屈していたのだった。」

(p.309) 「戦後、レニ・リーフェンシュタールは逮捕され、アメリカ軍の将校から毎日数時間にわたって尋問を受けた。彼女が第三帝国において、いかにして成功を収めたのか。またヒトラーについて知っていることをすべてを話すように、と彼女は繰り返し求められた。・・・1948年にレニ・リーフェンシュタールは連合国によって非ナチ化され、〈同調者〉と格付けられた。戦後の長いあいだ、彼女は仕事のうえで再び地歩を固めるのに苦労した。・・・60年代以降、彼女は映画用カメラの代わりに写真用カメラを手に取る。スーダンの未開民族ヌバを撮影した2冊の写真集を出版したが、これは彼女のオリンピック映画の美学的な映像につながるもので、再びセンセーショナルな成功をもたらした。70年代には、72歳になってから潜水を習い、サンゴ礁を収めた水中映画を撮影した。・・・97歳になった現在も相変わらず海に潜って、40歳年下のパートナーであるカメラマンが撮影するモチーフを探し求めている。」