●レオン・ゴールデンソーン(著)ロバート・ジェラトリー(編・序文)小林等/高橋早苗/浅岡政子(訳)(2005)『ニュルンベルク・インタビュー(下)』 河出書房新社
>>>>Leon Goldensohn, edited and introduced by Robert Gellately, (2004), The Nuremberg Interview
★エーリッヒ・フォン・マンシュタイン(1887~1973)・・・(pp.167~276)
◆ (p.274)
ヒトラーについて、どう思っていたのだろう。
「彼は非凡な人間だった。途方もない知力と並み外れた意志力を持っていた」
その意志力は善と悪の、どちらに向けられていただろうか。
「それは答えるのが難しい。彼はつねに意思を貫いた。彼の意志力は善悪どちらの目的にもかなったと言えるかもしれない」
いま、ヒトラーのことをどう思っているのだろう。
「時がたちにつれて、ヒトラーがまったく倫理観をなくしてしまったのは確かだ。だが、これはあとになってわかったことであり、当時はわからなかった」
あなたがヒトラーに倫理観がまったくないと最初に思ったのは、いつのことだろう。
「戦争が終わってからだ。おこっていたことについてすべて聞かされたあとのことだ。ヒトラーの倫理観の欠如を始めて目にしたのは、1944年7月20日以後の彼の行動を見たときだった。暗殺未遂事件の裁判や、絞首刑などだ。その後、ユダヤ人の絶滅計画について聞いたとき、そう思った」
20081022
エーリッヒ・フォン・マンシュタイン
20081002
ヘレーネ・ハンフシュテングル
● エーリッヒ・シャーケ(著)渡辺一男(訳)(2002)『ヒトラーをめぐる女たち』 TBSブリタニカ
★ ヘレーネ・ハンフシュテングル(Helene Hanfstaengl)
◆ (p.70) 「ヘレーネ・ハンフシュテングルは、1924年12月20日、ヒトラーが予定より早く出所するのを待ち構えていた。彼女はクリスマス・イブにヒトラーをミュンヘンのヘルツォーク公園の近くにある新しい邸宅へと招いたが、そこにハンフシュテングル一家は引っ越していたのだった。ヒトラーは招待主と3歳のエゴンのために、クリスマス用の特別なびっくりプレゼントを用意していた。ヒトラーはプレゼントを疲労する前に、古い友人であるエルンスト・ハンフシュテングルにピアノで〈トリスタンとイゾルデ〉の〈愛の死〉を演奏してくれるようにと頼んだ。・・・食事が済み、クリスマスのプレゼント交換が終わると、ついにびっくり箱が開けられた。アドルフ・ヒトラーはクリスマスのアトラクションとして考えた演し物(だしもの)で家族を喜ばせた。兵隊よろしく部屋の中をあちらこちらと行進し、それに合わせて第一次世界大戦時の戦闘音を真似てみせた。ドドーン、バタンバタンと大砲が響き、パンパン、ヒューッと銃声がした。ハンフシュテングル一家はあたかも塹壕のすぐ前に座っているかのようだった。クリスマスツリーの下から機関銃の一斉射撃が聞こえ、曲射砲と迫撃砲の音がした。ヒトラーは大砲が発射される音、その砲弾がうなりをあげて空を切り、そして着弾するときの爆発音を完璧に再現することができた。さらにフランス製、イギリス製、ドイツ製でそれぞれ異なる銃砲音を出すこともできた。」
◆ (p.72a) 「あるときヘレーネ・ハンフシュテングルとアドルフ・ヒトラーのあいだで、ヘレーネにとってはかなり不愉快な思い出として残ることになった一件が生じた。一方ヒトラーは、この件をおそらくきわめてエロチックだと感じていた。ヒトラーはこの晩、ハンフシュテングル家を訪れ、夜遅くまで彼らとともに居間に座っていた。それからエルンストは、ヒトラーのタクシーを呼ぶために数分間家を離れた。ヒトラーはこの時間を利用して、ヘレーネの前に跪いた。彼女の足元に身を投げ出して、自分を彼女の〈奴隷〉だと言い、彼女と出会ったのがあまりに遅すぎたことがなんとしても口惜しいと嘆いた。ヒトラーがこの〈甘く切ない体験〉を述べ立てている一方で、ヘレーネはヒトラーを立ち上がらせようと必死だった。これは、夫のエルンストが戻ってくる前にかろうじて間に合った。」
◆ (p.72b) 「ヒトラーが帰宅すると、もちろんヘレーネは夫にたったいま起こったことを語った。しかしエルンストは事態をそれ以上悲劇的にはとらず、『あの哀れな男は、罠に落ちた獣のように孤立しているものだから、ときおり恋に焦がれるミンネゼンンガー(中世の宮廷恋愛叙情詩人)の役を演じたい衝動に駆られるのさ』としか言わなかった。この晩ばかりはハンフシュテングルも、ヒトラーがヘレーネに夢中になっているのだと思った。だがそれから数年のあいだに、彼は数多くの似たような場面を目撃することになった。ヒトラーがあらゆる機会をとらえて女性に大げさな花束を贈ったり、手の甲にキスをする場面に居合わせたのである。時が経つにつれて、ハンフシュテングルは、この奇妙な振舞いはやはり〈エロティックな願望〉とは無関係で、まったく別の形式の快楽、すなわち自己演出という快楽に関係しているという結論に達した。ヒトラーは〈機能的不全〉である、つまり女性ではなく、自身の弁舌のみが高度の興奮をもたらすのだ、とハンフシュテングルは考えた。ヘレーネもこの見解に同意した。彼女はのちにヒトラーについて『彼は絶対的に中性であり、男性ではない』と述べた。」
★ ヘレーネ・ハンフシュテングル(Helene Hanfstaengl)
◆ (p.70) 「ヘレーネ・ハンフシュテングルは、1924年12月20日、ヒトラーが予定より早く出所するのを待ち構えていた。彼女はクリスマス・イブにヒトラーをミュンヘンのヘルツォーク公園の近くにある新しい邸宅へと招いたが、そこにハンフシュテングル一家は引っ越していたのだった。ヒトラーは招待主と3歳のエゴンのために、クリスマス用の特別なびっくりプレゼントを用意していた。ヒトラーはプレゼントを疲労する前に、古い友人であるエルンスト・ハンフシュテングルにピアノで〈トリスタンとイゾルデ〉の〈愛の死〉を演奏してくれるようにと頼んだ。・・・食事が済み、クリスマスのプレゼント交換が終わると、ついにびっくり箱が開けられた。アドルフ・ヒトラーはクリスマスのアトラクションとして考えた演し物(だしもの)で家族を喜ばせた。兵隊よろしく部屋の中をあちらこちらと行進し、それに合わせて第一次世界大戦時の戦闘音を真似てみせた。ドドーン、バタンバタンと大砲が響き、パンパン、ヒューッと銃声がした。ハンフシュテングル一家はあたかも塹壕のすぐ前に座っているかのようだった。クリスマスツリーの下から機関銃の一斉射撃が聞こえ、曲射砲と迫撃砲の音がした。ヒトラーは大砲が発射される音、その砲弾がうなりをあげて空を切り、そして着弾するときの爆発音を完璧に再現することができた。さらにフランス製、イギリス製、ドイツ製でそれぞれ異なる銃砲音を出すこともできた。」
◆ (p.72a) 「あるときヘレーネ・ハンフシュテングルとアドルフ・ヒトラーのあいだで、ヘレーネにとってはかなり不愉快な思い出として残ることになった一件が生じた。一方ヒトラーは、この件をおそらくきわめてエロチックだと感じていた。ヒトラーはこの晩、ハンフシュテングル家を訪れ、夜遅くまで彼らとともに居間に座っていた。それからエルンストは、ヒトラーのタクシーを呼ぶために数分間家を離れた。ヒトラーはこの時間を利用して、ヘレーネの前に跪いた。彼女の足元に身を投げ出して、自分を彼女の〈奴隷〉だと言い、彼女と出会ったのがあまりに遅すぎたことがなんとしても口惜しいと嘆いた。ヒトラーがこの〈甘く切ない体験〉を述べ立てている一方で、ヘレーネはヒトラーを立ち上がらせようと必死だった。これは、夫のエルンストが戻ってくる前にかろうじて間に合った。」
◆ (p.72b) 「ヒトラーが帰宅すると、もちろんヘレーネは夫にたったいま起こったことを語った。しかしエルンストは事態をそれ以上悲劇的にはとらず、『あの哀れな男は、罠に落ちた獣のように孤立しているものだから、ときおり恋に焦がれるミンネゼンンガー(中世の宮廷恋愛叙情詩人)の役を演じたい衝動に駆られるのさ』としか言わなかった。この晩ばかりはハンフシュテングルも、ヒトラーがヘレーネに夢中になっているのだと思った。だがそれから数年のあいだに、彼は数多くの似たような場面を目撃することになった。ヒトラーがあらゆる機会をとらえて女性に大げさな花束を贈ったり、手の甲にキスをする場面に居合わせたのである。時が経つにつれて、ハンフシュテングルは、この奇妙な振舞いはやはり〈エロティックな願望〉とは無関係で、まったく別の形式の快楽、すなわち自己演出という快楽に関係しているという結論に達した。ヒトラーは〈機能的不全〉である、つまり女性ではなく、自身の弁舌のみが高度の興奮をもたらすのだ、とハンフシュテングルは考えた。ヘレーネもこの見解に同意した。彼女はのちにヒトラーについて『彼は絶対的に中性であり、男性ではない』と述べた。」
レニ・リーフェンシュタール
● エーリッヒ・シャーケ(著)渡辺一男(訳)(2002)『ヒトラーをめぐる女たち』 TBSブリタニカ
★ レニ・リーフェンシュタール(Leni Riefenstahl)・・・(pp.283~310)
◆ (p.284a) 「彼女はナチス党の党員にはならなかった。だが抵抗もしなかった。彼女は映画を作り、その映画はナチズムを賛美するものであった。だが芸術的には最良のドキュメンタリー映画の一つとみなされた。」
◆ (p.284b) 「レニ・リーフェンシュタールは前世紀の初頭、1902年8月22日にベルリンで生まれた。子供のときから、一般に獅子座の特性とされるものすべてを発揮していた。すなわち活力、野心、頑固さ、それに加えてある種の虚栄心と際立った自己演出の傾向である。すでに4歳のときに舞踏家になろうとした。幼い少女時代にベルリンのティーアガルテンの中をローラースケートで走りまわり、息を呑むようなジャンプをやってのけた。もちろん見物人のいる前で。・・・」
◆ (p.284c) 「レニ・リーフェンシュタールとエーファ・ブラウンの少女時代にはかなりの類似点がみられる。エーファと同様にレニもまたバレエに夢中だったし、とても乱暴な子供だった。ふたりとも芝居をするのが好きで、いつかは舞台に立つことを夢見ていた。思春期になるとレニは、バストを大きく見せかけるために、ストッキングをブラウスの中に突っ込んだが、これはエーファ・ブラウンが同じ目的のためにハンカチを使ったのに似ている。レニは人形で遊ぶ代わりに飛行機の絵を描いた。レニとエーファの父親は双方ともに、控えめに言って、癇癪の傾向があったにもかかわらず、娘はふたりとも父親に強く結びついていた。」
◆ (p.289) 「レニの男性に対する関係は、両親の影響を受けて形成されていた。『わたしの母はすばらしい女性だった。しかし母は父の奴隷になっていた。母は父を愛していたが、ひどい苦しみを体験しなければならなかった。わたしは母に同情した』。レニの将来は母親と同じであってはならなかった。『わたしの自立への願いはますます強くなった。母が父からどのように扱われているかを見ていると、たとえば父は糊のきいたワイシャツの襟からボタンをうまくはずせないと、象のように足を踏み鳴らすことがあったが、そんなときわたしは、自分の将来の人生においてはけっして主導権を手放すまいと心に誓った。わたし自身の意思だけに決定させるのだ』」
◆ (p.291) 「1932年2月、・・・彼女は生涯で初めて政治集会を訪れた。アドルフ・ヒトラーがベルリンのシュポルト・パラストで演説をしていた。この事件が自分に及ぼした影響を、レニは次のように描写した。『奇妙なことに、わたしはすぐさま黙示録のような、けっして忘れることのできないヴィジョンを得た。あたかも目の前の地表が押し広げられるかのように思われた。それは突然真ん中で二つに割れて、そこから巨大な水が奔流のごとく、弾き出される半球のようだった。その水の噴出はすさまじく、天に達して、地を揺るがすかと思われた』。数千人の聴衆と同様に、レニ・リーフェンシュタールもまた抗いがたい吸引力に呑み込まれ、引きさらわれるがままになった。力と成功を約束するその印象深い演説者は、レニのなかで生々しい記憶として残った。」
◆ (p.294) 「そこでレニはヒトラーの話を聞くことになった。『公益は私益に優先する』。この文句はレニの〈心の奥底までこたえた〉。のちに彼女はこう書いた。『それまでわたしはとりわけ個人的な利害を考えてきた。そして他の人々について考えることはほとんどなかった。わたしは実に利己的に生きてきたのだった。わたしは恥ずかしく感じて、この瞬間には他の人々の犠牲になってもいいと思った。あるいはそう感じたのはわたしだけではなかったかもしれない。もしかしたら、大多数の人々がこの理由によって、ヒトラーの暗示の魔力から逃れることができなかったのかもしれない。演説が終わると、わたしはできるだけ早く家に帰りたいとしか考えなかった。それはほとんど逃亡だった。わたしはわたしの自主性を脅かしかねない何かに巻き込まれたくなかった』。レニ・リーフェンシュタールはほんの少しだけヒトラーの暗示能力に屈した。が、その後、自立を求める芸術家精神が戻った。」
◆ (p.307) 「1944年3月末にレニ・リーフェンシュタールはヒトラーと会ったが、これが最後となった。レニ自身はいつも、善良なヒトラーと邪悪なヒトラーを区別していた。ヒトラーの〈人種差別的な理念〉を彼女は拒絶したが、人間としては礼儀正しく、好感がもてると感じていた。そもそも初めから彼女は、この男が発散する〈魔術的な作用〉に屈していたのだった。」
◆ (p.309) 「戦後、レニ・リーフェンシュタールは逮捕され、アメリカ軍の将校から毎日数時間にわたって尋問を受けた。彼女が第三帝国において、いかにして成功を収めたのか。またヒトラーについて知っていることをすべてを話すように、と彼女は繰り返し求められた。・・・1948年にレニ・リーフェンシュタールは連合国によって非ナチ化され、〈同調者〉と格付けられた。戦後の長いあいだ、彼女は仕事のうえで再び地歩を固めるのに苦労した。・・・60年代以降、彼女は映画用カメラの代わりに写真用カメラを手に取る。スーダンの未開民族ヌバを撮影した2冊の写真集を出版したが、これは彼女のオリンピック映画の美学的な映像につながるもので、再びセンセーショナルな成功をもたらした。70年代には、72歳になってから潜水を習い、サンゴ礁を収めた水中映画を撮影した。・・・97歳になった現在も相変わらず海に潜って、40歳年下のパートナーであるカメラマンが撮影するモチーフを探し求めている。」
★ レニ・リーフェンシュタール(Leni Riefenstahl)・・・(pp.283~310)
◆ (p.284a) 「彼女はナチス党の党員にはならなかった。だが抵抗もしなかった。彼女は映画を作り、その映画はナチズムを賛美するものであった。だが芸術的には最良のドキュメンタリー映画の一つとみなされた。」
◆ (p.284b) 「レニ・リーフェンシュタールは前世紀の初頭、1902年8月22日にベルリンで生まれた。子供のときから、一般に獅子座の特性とされるものすべてを発揮していた。すなわち活力、野心、頑固さ、それに加えてある種の虚栄心と際立った自己演出の傾向である。すでに4歳のときに舞踏家になろうとした。幼い少女時代にベルリンのティーアガルテンの中をローラースケートで走りまわり、息を呑むようなジャンプをやってのけた。もちろん見物人のいる前で。・・・」
◆ (p.284c) 「レニ・リーフェンシュタールとエーファ・ブラウンの少女時代にはかなりの類似点がみられる。エーファと同様にレニもまたバレエに夢中だったし、とても乱暴な子供だった。ふたりとも芝居をするのが好きで、いつかは舞台に立つことを夢見ていた。思春期になるとレニは、バストを大きく見せかけるために、ストッキングをブラウスの中に突っ込んだが、これはエーファ・ブラウンが同じ目的のためにハンカチを使ったのに似ている。レニは人形で遊ぶ代わりに飛行機の絵を描いた。レニとエーファの父親は双方ともに、控えめに言って、癇癪の傾向があったにもかかわらず、娘はふたりとも父親に強く結びついていた。」
◆ (p.289) 「レニの男性に対する関係は、両親の影響を受けて形成されていた。『わたしの母はすばらしい女性だった。しかし母は父の奴隷になっていた。母は父を愛していたが、ひどい苦しみを体験しなければならなかった。わたしは母に同情した』。レニの将来は母親と同じであってはならなかった。『わたしの自立への願いはますます強くなった。母が父からどのように扱われているかを見ていると、たとえば父は糊のきいたワイシャツの襟からボタンをうまくはずせないと、象のように足を踏み鳴らすことがあったが、そんなときわたしは、自分の将来の人生においてはけっして主導権を手放すまいと心に誓った。わたし自身の意思だけに決定させるのだ』」
◆ (p.291) 「1932年2月、・・・彼女は生涯で初めて政治集会を訪れた。アドルフ・ヒトラーがベルリンのシュポルト・パラストで演説をしていた。この事件が自分に及ぼした影響を、レニは次のように描写した。『奇妙なことに、わたしはすぐさま黙示録のような、けっして忘れることのできないヴィジョンを得た。あたかも目の前の地表が押し広げられるかのように思われた。それは突然真ん中で二つに割れて、そこから巨大な水が奔流のごとく、弾き出される半球のようだった。その水の噴出はすさまじく、天に達して、地を揺るがすかと思われた』。数千人の聴衆と同様に、レニ・リーフェンシュタールもまた抗いがたい吸引力に呑み込まれ、引きさらわれるがままになった。力と成功を約束するその印象深い演説者は、レニのなかで生々しい記憶として残った。」
◆ (p.294) 「そこでレニはヒトラーの話を聞くことになった。『公益は私益に優先する』。この文句はレニの〈心の奥底までこたえた〉。のちに彼女はこう書いた。『それまでわたしはとりわけ個人的な利害を考えてきた。そして他の人々について考えることはほとんどなかった。わたしは実に利己的に生きてきたのだった。わたしは恥ずかしく感じて、この瞬間には他の人々の犠牲になってもいいと思った。あるいはそう感じたのはわたしだけではなかったかもしれない。もしかしたら、大多数の人々がこの理由によって、ヒトラーの暗示の魔力から逃れることができなかったのかもしれない。演説が終わると、わたしはできるだけ早く家に帰りたいとしか考えなかった。それはほとんど逃亡だった。わたしはわたしの自主性を脅かしかねない何かに巻き込まれたくなかった』。レニ・リーフェンシュタールはほんの少しだけヒトラーの暗示能力に屈した。が、その後、自立を求める芸術家精神が戻った。」
◆ (p.307) 「1944年3月末にレニ・リーフェンシュタールはヒトラーと会ったが、これが最後となった。レニ自身はいつも、善良なヒトラーと邪悪なヒトラーを区別していた。ヒトラーの〈人種差別的な理念〉を彼女は拒絶したが、人間としては礼儀正しく、好感がもてると感じていた。そもそも初めから彼女は、この男が発散する〈魔術的な作用〉に屈していたのだった。」
◆ (p.309) 「戦後、レニ・リーフェンシュタールは逮捕され、アメリカ軍の将校から毎日数時間にわたって尋問を受けた。彼女が第三帝国において、いかにして成功を収めたのか。またヒトラーについて知っていることをすべてを話すように、と彼女は繰り返し求められた。・・・1948年にレニ・リーフェンシュタールは連合国によって非ナチ化され、〈同調者〉と格付けられた。戦後の長いあいだ、彼女は仕事のうえで再び地歩を固めるのに苦労した。・・・60年代以降、彼女は映画用カメラの代わりに写真用カメラを手に取る。スーダンの未開民族ヌバを撮影した2冊の写真集を出版したが、これは彼女のオリンピック映画の美学的な映像につながるもので、再びセンセーショナルな成功をもたらした。70年代には、72歳になってから潜水を習い、サンゴ礁を収めた水中映画を撮影した。・・・97歳になった現在も相変わらず海に潜って、40歳年下のパートナーであるカメラマンが撮影するモチーフを探し求めている。」
20081001
ヘンリエッテ・ホフマン
● エーリッヒ・シャーケ(著)渡辺一男(訳)(2002)『ヒトラーをめぐる女たち』 TBSブリタニカ
★ ヘンリエッテ・ホフマン(Henriette Hoffmann) ・・・(pp.103~118)
◆ (p.107) 「ヒトラーはヘンリエッテにとって、早く大人の女性になりたいと願う少女の生活の中で最も重要な男性となった。彼女はヒトラーを仰ぎ見、賞賛し、尊敬した。一方ヒトラーにとってヘンリエッテは自分の前にいる小さな人間、その前では優越感に浸ることができ、彼が作り上げ、教育することのできる存在だった。ほかの女性の場合と違って、ヘンリエッテの前ではヒトラーは臆病におずおずと」立ち尽くすことはなく、その場を支配することができた。彼のやり方は非情に巧妙だったから、少女はこれに気づかなかった。」
★ ヘンリエッテ・ホフマン(Henriette Hoffmann) ・・・(pp.103~118)
◆ (p.107) 「ヒトラーはヘンリエッテにとって、早く大人の女性になりたいと願う少女の生活の中で最も重要な男性となった。彼女はヒトラーを仰ぎ見、賞賛し、尊敬した。一方ヒトラーにとってヘンリエッテは自分の前にいる小さな人間、その前では優越感に浸ることができ、彼が作り上げ、教育することのできる存在だった。ほかの女性の場合と違って、ヘンリエッテの前ではヒトラーは臆病におずおずと」立ち尽くすことはなく、その場を支配することができた。彼のやり方は非情に巧妙だったから、少女はこれに気づかなかった。」
ヴィニフレート・ワーグナー
● エーリッヒ・シャーケ(著)渡辺一男(訳)(2002)『ヒトラーをめぐる女たち』 TBSブリタニカ
★ ヴィニフレート・ワーグナー(Winifred Wagner)(1897.6.23~1980.3.5:82歳)・・・(pp75~102)
◆ (p.77a) 「彼女は1897年6月23日に英国のヘイスティングスで、ドイツ人女優と英国人技師の娘として生まれた。・・・しかし、ヴィニフレートがまだ2歳にならないうちに両親は死んでしまう。少女は、ロンドンで質素に暮らしていたデンマーク人の祖父のもとへ行く。しかしこの老人には、幼い子供の面倒を見ることは耐えがたい重荷と感じられた。彼は絶望し、子供と心中しようとさえ考えた。結局、老人は孫娘を孤児院に入れる決心をし、少女は10才になって休暇を機にそこを離れるまで、ずっとこの孤児院で過ごした。のちに彼女がこの時期について語ることはほとんどなかったが、おそらく思い出したくなかったのであろう」
◆ (p.77b) 「20世紀初頭の孤児院では子供が保護される一方、また辱められ、虐待されることがよくあった。それはヴィニフレート・ウィリアムズが幼少期の初期という大事なときに、アドルフ・ヒトラーと非情に類似した環境で過ごさなければならなかったことを物語っている。事実もしかすると、無意識だったとしても、この両者の環境が、夜の更けるまで語り合ったというワーグナーのオペラよりもずっと、緊密なふたりの絆を作り上げたのかもしれない」
◆ (p.93) 「ヴィニフレートはアドルフ・ヒトラーの右隣に座っていた。こうして彼女は、ヒトラーが癇癪の発作を起こすと自制心を失ってしまうさまを目の当たりにすることになった。口角泡を飛ばし、顔を醜くゆがめて、ヒトラーは副官を罵倒した。総統は気が狂ってしまった、とフリーデリントは怖くなった。彼女は心配そうな目を向けたが、ヴィニフレートは、何もきこえなかったかのごとく平然としていた。まったく落ち着き払って、彼女は自分の皿を見ていた。ヒトラーの発作はおよそ10分間続き、それから彼はあえぎながら、疲労困憊してその場にくずおれた。誰もひとことも発しなかった」
★ ヴィニフレート・ワーグナー(Winifred Wagner)(1897.6.23~1980.3.5:82歳)・・・(pp75~102)
◆ (p.77a) 「彼女は1897年6月23日に英国のヘイスティングスで、ドイツ人女優と英国人技師の娘として生まれた。・・・しかし、ヴィニフレートがまだ2歳にならないうちに両親は死んでしまう。少女は、ロンドンで質素に暮らしていたデンマーク人の祖父のもとへ行く。しかしこの老人には、幼い子供の面倒を見ることは耐えがたい重荷と感じられた。彼は絶望し、子供と心中しようとさえ考えた。結局、老人は孫娘を孤児院に入れる決心をし、少女は10才になって休暇を機にそこを離れるまで、ずっとこの孤児院で過ごした。のちに彼女がこの時期について語ることはほとんどなかったが、おそらく思い出したくなかったのであろう」
◆ (p.77b) 「20世紀初頭の孤児院では子供が保護される一方、また辱められ、虐待されることがよくあった。それはヴィニフレート・ウィリアムズが幼少期の初期という大事なときに、アドルフ・ヒトラーと非情に類似した環境で過ごさなければならなかったことを物語っている。事実もしかすると、無意識だったとしても、この両者の環境が、夜の更けるまで語り合ったというワーグナーのオペラよりもずっと、緊密なふたりの絆を作り上げたのかもしれない」
◆ (p.93) 「ヴィニフレートはアドルフ・ヒトラーの右隣に座っていた。こうして彼女は、ヒトラーが癇癪の発作を起こすと自制心を失ってしまうさまを目の当たりにすることになった。口角泡を飛ばし、顔を醜くゆがめて、ヒトラーは副官を罵倒した。総統は気が狂ってしまった、とフリーデリントは怖くなった。彼女は心配そうな目を向けたが、ヴィニフレートは、何もきこえなかったかのごとく平然としていた。まったく落ち着き払って、彼女は自分の皿を見ていた。ヒトラーの発作はおよそ10分間続き、それから彼はあえぎながら、疲労困憊してその場にくずおれた。誰もひとことも発しなかった」
クリスタ・シュレーダー
● エーリッヒ・シャーケ(著)渡辺一男(訳)(2002)『ヒトラーをめぐる女たち』 TBSブリタニカ
★ クリスタ・シュレーダー(Christa Schroeder)・・・囚われの秘書 (pp.311~329)
◆ (p.312) 「クリスタの本名はエミーリエ・フィリピーネであったが、彼女はこの名前がどうも気に入らなかった。彼女はクリスタ、あるいはまれにクリスティーナと呼ばれた。北ドイツの出身で、1908年3月19日にハノーファーシュ・ミュンデンに生まれた。彼女は母親のもとで育てられ、父親を知らなかった。母親との関係もまた格別情愛のこもったものではなかった。エミーリエ・フィリピーネは厳しく育てられ、少女が望んでいた愛情は与えられなかった。」
◆ (p.314) 「クリスタ・シュレーダーは、次にヒトラーに会ったとき、写真にサインをしてくれるようにと頼んだ。ヒトラーはサインをする前に、彼女のファーストネームを尋ねた。『それが、いやな名前なんです』と彼女は言った。『エミーリエというのです』『おやな名前などと言ってはいけませんよ』とヒトラーが応じた。『とてもすてきな名前ではありませんか、わたしの最初の恋人の名前ですよ』」
◆ (p.324) 「クリスタ・シュレーダーは、数年以上にわたって、このようにヒトラーに魅了されたことについて、のちに次のような説明をした。『ヒトラーは磁石のように人を惹きつけるカリスマ性というたぐいまれな天賦の才の持ち主だった。さらに第六感、そして彼にとってしばしば決定的であった透視の直観を備えていた。彼を脅かす危険を察知し、大衆の密かな反応を神秘的に感じ取り、そして対話の相手を説明のつかないやり方で魅了した。彼には霊媒の感受性があり、同時に催眠術師の磁性をあわせもっていた。』」
◆ (p.327) 「70年代にクリスタ・シュレーダーは、速記で記録したものの多くを通常の文字に書き換えた。彼女は友人や知人から、ヒトラーについて知っていることをすべて書き記すようにせきたてられていると感じていた。しかしこの作業は彼女にとって気の重いものであり、何度も抑鬱状態に陥った。結局彼女は次の結論に達した。『アドルフ・ヒトラーの〈素顔〉を明らかにできるとわたしが考えたのは誤りだった。それはとにかく不可能である。なぜなら彼はあまりにも多くの顔をもっていたからだ』」
◆ (p.328a) 「またクリスタ・シュレーダーは次のようにも書いている。『わたしはけっして政治に関心のある人間ではなかった。当時わたしが関心をもったのは、ひとえに人間としてのヒトラーだった・・・』長年ヒトラーの傍らにいた多くの者たちが、のちになってからこのように人間と殺人者とを区別した。しかし人間と殺人者、それは同一人物であった。そして犠牲者たちが、彼らを殺害させた男には実は親切な面もあって、協力者たちにちょっとした贈り物をし、女性には心をくすぐるようなお世辞を言っていたという事実を知ったとしても、それは何の慰めにもならなかったであろう。『わたしが体験したことに対して、わたしは多くの距離を保つことが必要だった』とクリスタ・シュレーダーは記録の最後に書いている。『しかも過去がまだ現在であった当時からすでに』」
◆ (p.328b) 「もし、クリスタ・シュレーダーおよび他の数百万の人々が距離をおく姿勢をとらなかったならば、もし、彼らがナチズムによってなされた戦慄すべき事件をわが身のこととして感じていたならば、世界の歴史は異なる様相を呈していたかもしれない。自己からは距離をおいていたからこそ、ヒトラーの肯定的な面に熱狂し、他の側面を無視することが可能だったのである。これとは逆に、身近なものとして見れば、犠牲者の苦しみは見逃し得なかったであろうし、彼らの叫び声を聞き逃すこともなかったであろう。身近さは共感を可能にする。そして共感は人間として行動する勇気と力を与えてくれるのだ。」
★ クリスタ・シュレーダー(Christa Schroeder)・・・囚われの秘書 (pp.311~329)
◆ (p.312) 「クリスタの本名はエミーリエ・フィリピーネであったが、彼女はこの名前がどうも気に入らなかった。彼女はクリスタ、あるいはまれにクリスティーナと呼ばれた。北ドイツの出身で、1908年3月19日にハノーファーシュ・ミュンデンに生まれた。彼女は母親のもとで育てられ、父親を知らなかった。母親との関係もまた格別情愛のこもったものではなかった。エミーリエ・フィリピーネは厳しく育てられ、少女が望んでいた愛情は与えられなかった。」
◆ (p.314) 「クリスタ・シュレーダーは、次にヒトラーに会ったとき、写真にサインをしてくれるようにと頼んだ。ヒトラーはサインをする前に、彼女のファーストネームを尋ねた。『それが、いやな名前なんです』と彼女は言った。『エミーリエというのです』『おやな名前などと言ってはいけませんよ』とヒトラーが応じた。『とてもすてきな名前ではありませんか、わたしの最初の恋人の名前ですよ』」
◆ (p.324) 「クリスタ・シュレーダーは、数年以上にわたって、このようにヒトラーに魅了されたことについて、のちに次のような説明をした。『ヒトラーは磁石のように人を惹きつけるカリスマ性というたぐいまれな天賦の才の持ち主だった。さらに第六感、そして彼にとってしばしば決定的であった透視の直観を備えていた。彼を脅かす危険を察知し、大衆の密かな反応を神秘的に感じ取り、そして対話の相手を説明のつかないやり方で魅了した。彼には霊媒の感受性があり、同時に催眠術師の磁性をあわせもっていた。』」
◆ (p.327) 「70年代にクリスタ・シュレーダーは、速記で記録したものの多くを通常の文字に書き換えた。彼女は友人や知人から、ヒトラーについて知っていることをすべて書き記すようにせきたてられていると感じていた。しかしこの作業は彼女にとって気の重いものであり、何度も抑鬱状態に陥った。結局彼女は次の結論に達した。『アドルフ・ヒトラーの〈素顔〉を明らかにできるとわたしが考えたのは誤りだった。それはとにかく不可能である。なぜなら彼はあまりにも多くの顔をもっていたからだ』」
◆ (p.328a) 「またクリスタ・シュレーダーは次のようにも書いている。『わたしはけっして政治に関心のある人間ではなかった。当時わたしが関心をもったのは、ひとえに人間としてのヒトラーだった・・・』長年ヒトラーの傍らにいた多くの者たちが、のちになってからこのように人間と殺人者とを区別した。しかし人間と殺人者、それは同一人物であった。そして犠牲者たちが、彼らを殺害させた男には実は親切な面もあって、協力者たちにちょっとした贈り物をし、女性には心をくすぐるようなお世辞を言っていたという事実を知ったとしても、それは何の慰めにもならなかったであろう。『わたしが体験したことに対して、わたしは多くの距離を保つことが必要だった』とクリスタ・シュレーダーは記録の最後に書いている。『しかも過去がまだ現在であった当時からすでに』」
◆ (p.328b) 「もし、クリスタ・シュレーダーおよび他の数百万の人々が距離をおく姿勢をとらなかったならば、もし、彼らがナチズムによってなされた戦慄すべき事件をわが身のこととして感じていたならば、世界の歴史は異なる様相を呈していたかもしれない。自己からは距離をおいていたからこそ、ヒトラーの肯定的な面に熱狂し、他の側面を無視することが可能だったのである。これとは逆に、身近なものとして見れば、犠牲者の苦しみは見逃し得なかったであろうし、彼らの叫び声を聞き逃すこともなかったであろう。身近さは共感を可能にする。そして共感は人間として行動する勇気と力を与えてくれるのだ。」
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