20081022

エーリッヒ・フォン・マンシュタイン

レオン・ゴールデンソーン(著)ロバート・ジェラトリー(編・序文)小林等/高橋早苗/浅岡政子(訳)(2005)『ニュルンベルク・インタビュー(下)』 河出書房新社




>>>>Leon Goldensohn, edited and introduced by Robert Gellately, (2004), The Nuremberg Interview




エーリッヒ・フォン・マンシュタイン(1887~1973)・・・(pp.167~276)

(p.274)
ヒトラーについて、どう思っていたのだろう。
「彼は非凡な人間だった。途方もない知力と並み外れた意志力を持っていた」

その意志力は善と悪の、どちらに向けられていただろうか。
「それは答えるのが難しい。彼はつねに意思を貫いた。彼の意志力は善悪どちらの目的にもかなったと言えるかもしれない」

いま、ヒトラーのことをどう思っているのだろう。
「時がたちにつれて、ヒトラーがまったく倫理観をなくしてしまったのは確かだ。だが、これはあとになってわかったことであり、当時はわからなかった」

あなたがヒトラーに倫理観がまったくないと最初に思ったのは、いつのことだろう。
「戦争が終わってからだ。おこっていたことについてすべて聞かされたあとのことだ。ヒトラーの倫理観の欠如を始めて目にしたのは、1944年7月20日以後の彼の行動を見たときだった。暗殺未遂事件の裁判や、絞首刑などだ。その後、ユダヤ人の絶滅計画について聞いたとき、そう思った」

20081002

ヘレーネ・ハンフシュテングル

● エーリッヒ・シャーケ(著)渡辺一男(訳)(2002)『ヒトラーをめぐる女たち』 TBSブリタニカ



 ヘレーネ・ハンフシュテングル(Helene Hanfstaengl)

(p.70) 「ヘレーネ・ハンフシュテングルは、1924年12月20日、ヒトラーが予定より早く出所するのを待ち構えていた。彼女はクリスマス・イブにヒトラーをミュンヘンのヘルツォーク公園の近くにある新しい邸宅へと招いたが、そこにハンフシュテングル一家は引っ越していたのだった。ヒトラーは招待主と3歳のエゴンのために、クリスマス用の特別なびっくりプレゼントを用意していた。ヒトラーはプレゼントを疲労する前に、古い友人であるエルンスト・ハンフシュテングルにピアノで〈トリスタンとイゾルデ〉の〈愛の死〉を演奏してくれるようにと頼んだ。・・・食事が済み、クリスマスのプレゼント交換が終わると、ついにびっくり箱が開けられた。アドルフ・ヒトラーはクリスマスのアトラクションとして考えた演し物(だしもの)で家族を喜ばせた。兵隊よろしく部屋の中をあちらこちらと行進し、それに合わせて第一次世界大戦時の戦闘音を真似てみせた。ドドーン、バタンバタンと大砲が響き、パンパン、ヒューッと銃声がした。ハンフシュテングル一家はあたかも塹壕のすぐ前に座っているかのようだった。クリスマスツリーの下から機関銃の一斉射撃が聞こえ、曲射砲と迫撃砲の音がした。ヒトラーは大砲が発射される音、その砲弾がうなりをあげて空を切り、そして着弾するときの爆発音を完璧に再現することができた。さらにフランス製、イギリス製、ドイツ製でそれぞれ異なる銃砲音を出すこともできた。」

(p.72a) 「あるときヘレーネ・ハンフシュテングルとアドルフ・ヒトラーのあいだで、ヘレーネにとってはかなり不愉快な思い出として残ることになった一件が生じた。一方ヒトラーは、この件をおそらくきわめてエロチックだと感じていた。ヒトラーはこの晩、ハンフシュテングル家を訪れ、夜遅くまで彼らとともに居間に座っていた。それからエルンストは、ヒトラーのタクシーを呼ぶために数分間家を離れた。ヒトラーはこの時間を利用して、ヘレーネの前に跪いた。彼女の足元に身を投げ出して、自分を彼女の〈奴隷〉だと言い、彼女と出会ったのがあまりに遅すぎたことがなんとしても口惜しいと嘆いた。ヒトラーがこの〈甘く切ない体験〉を述べ立てている一方で、ヘレーネはヒトラーを立ち上がらせようと必死だった。これは、夫のエルンストが戻ってくる前にかろうじて間に合った。」

(p.72b) 「ヒトラーが帰宅すると、もちろんヘレーネは夫にたったいま起こったことを語った。しかしエルンストは事態をそれ以上悲劇的にはとらず、『あの哀れな男は、罠に落ちた獣のように孤立しているものだから、ときおり恋に焦がれるミンネゼンンガー(中世の宮廷恋愛叙情詩人)の役を演じたい衝動に駆られるのさ』としか言わなかった。この晩ばかりはハンフシュテングルも、ヒトラーがヘレーネに夢中になっているのだと思った。だがそれから数年のあいだに、彼は数多くの似たような場面を目撃することになった。ヒトラーがあらゆる機会をとらえて女性に大げさな花束を贈ったり、手の甲にキスをする場面に居合わせたのである。時が経つにつれて、ハンフシュテングルは、この奇妙な振舞いはやはり〈エロティックな願望〉とは無関係で、まったく別の形式の快楽、すなわち自己演出という快楽に関係しているという結論に達した。ヒトラーは〈機能的不全〉である、つまり女性ではなく、自身の弁舌のみが高度の興奮をもたらすのだ、とハンフシュテングルは考えた。ヘレーネもこの見解に同意した。彼女はのちにヒトラーについて『彼は絶対的に中性であり、男性ではない』と述べた。」

レニ・リーフェンシュタール

エーリッヒ・シャーケ(著)渡辺一男(訳)(2002)『ヒトラーをめぐる女たち』 TBSブリタニカ





レニ・リーフェンシュタール(Leni Riefenstahl)・・・(pp.283~310)

(p.284a) 「彼女はナチス党の党員にはならなかった。だが抵抗もしなかった。彼女は映画を作り、その映画はナチズムを賛美するものであった。だが芸術的には最良のドキュメンタリー映画の一つとみなされた。」

(p.284b) 「レニ・リーフェンシュタールは前世紀の初頭、1902年8月22日にベルリンで生まれた。子供のときから、一般に獅子座の特性とされるものすべてを発揮していた。すなわち活力、野心、頑固さ、それに加えてある種の虚栄心と際立った自己演出の傾向である。すでに4歳のときに舞踏家になろうとした。幼い少女時代にベルリンのティーアガルテンの中をローラースケートで走りまわり、息を呑むようなジャンプをやってのけた。もちろん見物人のいる前で。・・・」

(p.284c) 「レニ・リーフェンシュタールとエーファ・ブラウンの少女時代にはかなりの類似点がみられる。エーファと同様にレニもまたバレエに夢中だったし、とても乱暴な子供だった。ふたりとも芝居をするのが好きで、いつかは舞台に立つことを夢見ていた。思春期になるとレニは、バストを大きく見せかけるために、ストッキングをブラウスの中に突っ込んだが、これはエーファ・ブラウンが同じ目的のためにハンカチを使ったのに似ている。レニは人形で遊ぶ代わりに飛行機の絵を描いた。レニとエーファの父親は双方ともに、控えめに言って、癇癪の傾向があったにもかかわらず、娘はふたりとも父親に強く結びついていた。」



(p.289) 「レニの男性に対する関係は、両親の影響を受けて形成されていた。『わたしの母はすばらしい女性だった。しかし母は父の奴隷になっていた。母は父を愛していたが、ひどい苦しみを体験しなければならなかった。わたしは母に同情した』。レニの将来は母親と同じであってはならなかった。『わたしの自立への願いはますます強くなった。母が父からどのように扱われているかを見ていると、たとえば父は糊のきいたワイシャツの襟からボタンをうまくはずせないと、象のように足を踏み鳴らすことがあったが、そんなときわたしは、自分の将来の人生においてはけっして主導権を手放すまいと心に誓った。わたし自身の意思だけに決定させるのだ』」

(p.291) 「1932年2月、・・・彼女は生涯で初めて政治集会を訪れた。アドルフ・ヒトラーがベルリンのシュポルト・パラストで演説をしていた。この事件が自分に及ぼした影響を、レニは次のように描写した。『奇妙なことに、わたしはすぐさま黙示録のような、けっして忘れることのできないヴィジョンを得た。あたかも目の前の地表が押し広げられるかのように思われた。それは突然真ん中で二つに割れて、そこから巨大な水が奔流のごとく、弾き出される半球のようだった。その水の噴出はすさまじく、天に達して、地を揺るがすかと思われた』。数千人の聴衆と同様に、レニ・リーフェンシュタールもまた抗いがたい吸引力に呑み込まれ、引きさらわれるがままになった。力と成功を約束するその印象深い演説者は、レニのなかで生々しい記憶として残った。」

(p.294) 「そこでレニはヒトラーの話を聞くことになった。『公益は私益に優先する』。この文句はレニの〈心の奥底までこたえた〉。のちに彼女はこう書いた。『それまでわたしはとりわけ個人的な利害を考えてきた。そして他の人々について考えることはほとんどなかった。わたしは実に利己的に生きてきたのだった。わたしは恥ずかしく感じて、この瞬間には他の人々の犠牲になってもいいと思った。あるいはそう感じたのはわたしだけではなかったかもしれない。もしかしたら、大多数の人々がこの理由によって、ヒトラーの暗示の魔力から逃れることができなかったのかもしれない。演説が終わると、わたしはできるだけ早く家に帰りたいとしか考えなかった。それはほとんど逃亡だった。わたしはわたしの自主性を脅かしかねない何かに巻き込まれたくなかった』。レニ・リーフェンシュタールはほんの少しだけヒトラーの暗示能力に屈した。が、その後、自立を求める芸術家精神が戻った。」

(p.307) 「1944年3月末にレニ・リーフェンシュタールはヒトラーと会ったが、これが最後となった。レニ自身はいつも、善良なヒトラーと邪悪なヒトラーを区別していた。ヒトラーの〈人種差別的な理念〉を彼女は拒絶したが、人間としては礼儀正しく、好感がもてると感じていた。そもそも初めから彼女は、この男が発散する〈魔術的な作用〉に屈していたのだった。」

(p.309) 「戦後、レニ・リーフェンシュタールは逮捕され、アメリカ軍の将校から毎日数時間にわたって尋問を受けた。彼女が第三帝国において、いかにして成功を収めたのか。またヒトラーについて知っていることをすべてを話すように、と彼女は繰り返し求められた。・・・1948年にレニ・リーフェンシュタールは連合国によって非ナチ化され、〈同調者〉と格付けられた。戦後の長いあいだ、彼女は仕事のうえで再び地歩を固めるのに苦労した。・・・60年代以降、彼女は映画用カメラの代わりに写真用カメラを手に取る。スーダンの未開民族ヌバを撮影した2冊の写真集を出版したが、これは彼女のオリンピック映画の美学的な映像につながるもので、再びセンセーショナルな成功をもたらした。70年代には、72歳になってから潜水を習い、サンゴ礁を収めた水中映画を撮影した。・・・97歳になった現在も相変わらず海に潜って、40歳年下のパートナーであるカメラマンが撮影するモチーフを探し求めている。」

20081001

ヘンリエッテ・ホフマン

 エーリッヒ・シャーケ(著)渡辺一男(訳)(2002)『ヒトラーをめぐる女たち』 TBSブリタニカ




★ ヘンリエッテ・ホフマン(Henriette Hoffmann) ・・・(pp.103~118)

(p.107) 「ヒトラーはヘンリエッテにとって、早く大人の女性になりたいと願う少女の生活の中で最も重要な男性となった。彼女はヒトラーを仰ぎ見、賞賛し、尊敬した。一方ヒトラーにとってヘンリエッテは自分の前にいる小さな人間、その前では優越感に浸ることができ、彼が作り上げ、教育することのできる存在だった。ほかの女性の場合と違って、ヘンリエッテの前ではヒトラーは臆病におずおずと」立ち尽くすことはなく、その場を支配することができた。彼のやり方は非情に巧妙だったから、少女はこれに気づかなかった。」

ヴィニフレート・ワーグナー

● エーリッヒ・シャーケ(著)渡辺一男(訳)(2002)『ヒトラーをめぐる女たち』 TBSブリタニカ





 ヴィニフレート・ワーグナー(Winifred Wagner)(1897.6.23~1980.3.5:82歳)・・・(pp75~102)

(p.77a) 「彼女は1897年6月23日に英国のヘイスティングスで、ドイツ人女優と英国人技師の娘として生まれた。・・・しかし、ヴィニフレートがまだ2歳にならないうちに両親は死んでしまう。少女は、ロンドンで質素に暮らしていたデンマーク人の祖父のもとへ行く。しかしこの老人には、幼い子供の面倒を見ることは耐えがたい重荷と感じられた。彼は絶望し、子供と心中しようとさえ考えた。結局、老人は孫娘を孤児院に入れる決心をし、少女は10才になって休暇を機にそこを離れるまで、ずっとこの孤児院で過ごした。のちに彼女がこの時期について語ることはほとんどなかったが、おそらく思い出したくなかったのであろう」

(p.77b) 「20世紀初頭の孤児院では子供が保護される一方、また辱められ、虐待されることがよくあった。それはヴィニフレート・ウィリアムズが幼少期の初期という大事なときに、アドルフ・ヒトラーと非情に類似した環境で過ごさなければならなかったことを物語っている。事実もしかすると、無意識だったとしても、この両者の環境が、夜の更けるまで語り合ったというワーグナーのオペラよりもずっと、緊密なふたりの絆を作り上げたのかもしれない」

(p.93) 「ヴィニフレートはアドルフ・ヒトラーの右隣に座っていた。こうして彼女は、ヒトラーが癇癪の発作を起こすと自制心を失ってしまうさまを目の当たりにすることになった。口角泡を飛ばし、顔を醜くゆがめて、ヒトラーは副官を罵倒した。総統は気が狂ってしまった、とフリーデリントは怖くなった。彼女は心配そうな目を向けたが、ヴィニフレートは、何もきこえなかったかのごとく平然としていた。まったく落ち着き払って、彼女は自分の皿を見ていた。ヒトラーの発作はおよそ10分間続き、それから彼はあえぎながら、疲労困憊してその場にくずおれた。誰もひとことも発しなかった」

クリスタ・シュレーダー

 エーリッヒ・シャーケ(著)渡辺一男(訳)(2002)『ヒトラーをめぐる女たち』 TBSブリタニカ





 クリスタ・シュレーダー(Christa Schroeder)・・・囚われの秘書  (pp.311~329)

(p.312) 「クリスタの本名はエミーリエ・フィリピーネであったが、彼女はこの名前がどうも気に入らなかった。彼女はクリスタ、あるいはまれにクリスティーナと呼ばれた。北ドイツの出身で、1908年3月19日にハノーファーシュ・ミュンデンに生まれた。彼女は母親のもとで育てられ、父親を知らなかった。母親との関係もまた格別情愛のこもったものではなかった。エミーリエ・フィリピーネは厳しく育てられ、少女が望んでいた愛情は与えられなかった。」

(p.314) 「クリスタ・シュレーダーは、次にヒトラーに会ったとき、写真にサインをしてくれるようにと頼んだ。ヒトラーはサインをする前に、彼女のファーストネームを尋ねた。『それが、いやな名前なんです』と彼女は言った。『エミーリエというのです』『おやな名前などと言ってはいけませんよ』とヒトラーが応じた。『とてもすてきな名前ではありませんか、わたしの最初の恋人の名前ですよ』」

(p.324) 「クリスタ・シュレーダーは、数年以上にわたって、このようにヒトラーに魅了されたことについて、のちに次のような説明をした。『ヒトラーは磁石のように人を惹きつけるカリスマ性というたぐいまれな天賦の才の持ち主だった。さらに第六感、そして彼にとってしばしば決定的であった透視の直観を備えていた。彼を脅かす危険を察知し、大衆の密かな反応を神秘的に感じ取り、そして対話の相手を説明のつかないやり方で魅了した。彼には霊媒の感受性があり、同時に催眠術師の磁性をあわせもっていた。』」

(p.327) 「70年代にクリスタ・シュレーダーは、速記で記録したものの多くを通常の文字に書き換えた。彼女は友人や知人から、ヒトラーについて知っていることをすべて書き記すようにせきたてられていると感じていた。しかしこの作業は彼女にとって気の重いものであり、何度も抑鬱状態に陥った。結局彼女は次の結論に達した。『アドルフ・ヒトラーの〈素顔〉を明らかにできるとわたしが考えたのは誤りだった。それはとにかく不可能である。なぜなら彼はあまりにも多くの顔をもっていたからだ』」

(p.328a) 「またクリスタ・シュレーダーは次のようにも書いている。『わたしはけっして政治に関心のある人間ではなかった。当時わたしが関心をもったのは、ひとえに人間としてのヒトラーだった・・・』長年ヒトラーの傍らにいた多くの者たちが、のちになってからこのように人間と殺人者とを区別した。しかし人間と殺人者、それは同一人物であった。そして犠牲者たちが、彼らを殺害させた男には実は親切な面もあって、協力者たちにちょっとした贈り物をし、女性には心をくすぐるようなお世辞を言っていたという事実を知ったとしても、それは何の慰めにもならなかったであろう。『わたしが体験したことに対して、わたしは多くの距離を保つことが必要だった』とクリスタ・シュレーダーは記録の最後に書いている。『しかも過去がまだ現在であった当時からすでに』」

(p.328b) 「もし、クリスタ・シュレーダーおよび他の数百万の人々が距離をおく姿勢をとらなかったならば、もし、彼らがナチズムによってなされた戦慄すべき事件をわが身のこととして感じていたならば、世界の歴史は異なる様相を呈していたかもしれない。自己からは距離をおいていたからこそ、ヒトラーの肯定的な面に熱狂し、他の側面を無視することが可能だったのである。これとは逆に、身近なものとして見れば、犠牲者の苦しみは見逃し得なかったであろうし、彼らの叫び声を聞き逃すこともなかったであろう。身近さは共感を可能にする。そして共感は人間として行動する勇気と力を与えてくれるのだ。」

20080929

エルヴィン・ロンメル

 グイド・クノップ(著)高木玲(訳)(2002)『ヒトラーの戦士たち---6人の将帥』 原書房




エルヴィン・ロンメル  <英雄>  (pp.17~98)

  (p.8) 「ロンメルは誠実な軍人であった。彼は民族虐殺についてその全体的規模をけっして知ることがなかった。軍人らしい美徳を、彼はもっともすぐれた形で代表していた。だが主観的には祖国につくしているつもりでも、客観的にみれば、彼は犯罪者につくしていたのである。」

  (p.59a) 「ロンメルは反ユダヤ主義者ではなかった。そのことに疑問の余地はない。第三帝国の初期、ロンメルがゴスラ-の大隊長で、ヒトラーの勢力圏からはまだ遠くへだたっていたころ、こんな出来事があったことを、彼の息子は伝えている。ある大隊付き軍医の〈ユダヤ的な〉鼻について、子どもらしい素朴さから、息子が父親に質問したときのことである。息子は父親の慈愛にみちた、しかしきっぱりとした叱責をくらったという。ロンメルの知人にはユダヤ人が多くいた。他の高級軍人には、反ユダヤ的発言をしたことが伝えられてもいるが、彼にはそんなものはみられない。」

 (p.59b) 「だがナチ首脳部の考え方に対し、ロンメルの態度がどれほどナイーヴであったかは、1943年のあるエピソードによく現れている。あるときのヒトラーのテーブルトークにおいて、ドイツのユダヤ人政策が、外国での国際的威信の低下を招いていることを、ロンメルは強く言上する。ドイツの名声を取りもどすために、彼はこんな提案を行なった。『ユダヤ人の大管区指導者がひとり生まれれば、わが国の世界での立場は良くなるでしょう』。これはヒトラーの激昂をかった。『ロンメル、貴君はわたしの意志を何一つ理解しておらんのか』。ロンメルがその場を辞したあと、ヒトラーは信じられないといった風情であっけにとられていた。『ユダヤ人がこの戦争の原因であることが、あの男には理解できないのか?』と。」

(p.61) 「ナチがどこまでやろうとしているのか、他の多くの人々と同じくロンメルには想像できなかった。東方で行なわれていた残虐行為のことをロンメルは耳にしていたが、彼はその責任を、ヒトラーデハナクヒトラーのとりまきに負わせた。軍事的天才は、政治的には無知だった。元シュトゥットガルト市長であった息子マンフレート・ロンメルはこう認める。『1938年以降、たしかに父はヒトラーに魅了されきっていました。真実を知ったのは比較的遅かったのです』。それはあまりに遅すぎた---ロンメル自身にとっても。」

(p.96) 「エルヴィン・ロンメル元帥という人物のなかには、責任ある将軍が全体主義体制のなかで直面させられるジレンマが、あますところなく現れている。・・・〈砂漠の狐〉エルヴィン・ロンメルは、司令官として才能に恵まれた軍人であった。しかしこの軍事的天才はモラルの面では失敗者だったのだろうか?ロンメルの悲劇とは、民族虐殺の全体像をけっして知ることなく、軍人として美徳をもっともすぐれた形で表したこと―――そしてそのことで犯罪に奉仕していたことである。」

(p.98) 「ロンメルの息子マンフレートは、父親の人生からこんな結論を導きだしている。『従順とか勇敢とか規律といった二次的な徳が讃えられるのは、それが第一の徳に奉仕する場合にかぎられます。第一の徳とは人類愛もしくは真実です。しかしそれらがただ総統アドルフ・ヒトラーと彼のいだいた奇怪な祖国の概念に奉仕するだけならば、まったく正反対のものになってしまいます』。」

20080924

エヴァ・ブラウン(2)

● エーリッヒ・シャーケ(著)渡辺一男(訳)(2002)『ヒトラーをめぐる女たち』 TBSブリタニカ





エーファ・ブラウン (pp.163~221)

(p.176) 「エーファ・ブラウンは17歳で、ファッションと映画スターについてのおしゃべりを好む、まったく無邪気で世間知らずの娘だった。・・・エーファ自身はこの最初の出会いをのちに姉にこう話している。『わたしは閉店後も店に残って、書類の整理をしていたの。そして書類ファイルがキャブネットの高いところにあったので、ちょうど脚立に上がったところだった。そこえ店主が入ってきて、一緒に年寄りの紳士が来たの。おかしな口髭を生やして、明るい色のトレンチコートを着て、大きなフェルト帽を手に持って。ふたりは、わたしの筋違いの部屋の隅に腰を下ろした。わたしが振り向かずにそっちを窺うと、その男性がわたしの脚を見ているのに気づいたの。わたしはこの日スカート丈を短くしていたのであまりいい気持ちではなかった。なぜって裾の縁取りがちゃんとしているかどうか確信がなかったからよ』エーファはそろそろと脚立から下りた。雇い主が彼女をこの風変わりな紳士に紹介した。『ヴァルフさん、うちの有能な若いエーファ嬢です』 エーファは紳士に手を差し出し、微笑んだ。店主は彼女に、角を曲がったところにある食堂に行って、ビールとレバーケーゼ(ソーセージの一種)を買ってくるように言いつけた。使いから戻ってくると、エーファは自分の分をがつがつと食べてしまったが、ビールを飲むのはほんの少しだけにした。無作法と思われたくなかったからだ。『その年配の紳士はわたしにお愛想を言ってくれた』とエーファはこのときの出会いの続きを語っている。『わたしたちは音楽について、国立劇場のお芝居について話した、と思うわ。そのとき彼はじっとわたしを見つめていた。・・・』・・・」

20080920

エヴァ・ブラウン(1)

● グレン・B・インフィールド(著) 中山善之(訳) (1975) 『ヒトラーが愛した女(上)(下)』 白金書房





 (上巻)(p.13) 「エヴァ・ブラウンは、第三帝国の謎の女性で、息をのませるようなこの美人を。ヒトラーは人前に出さなかった。彼女の存在に気づいていたのは、彼とごく親しい仲間だけであった。」

(上巻)(p.57) 「ヒトラーがエヴァをはじめて見たのは、彼女が梯子にのぼって、高い棚の一つからフィルムの箱をとりだしているときのことだった。ホフマンは彼の目が、彼女のスラリとのびた脚を下から上へとゆっくりと移動し、まるくかたくしまった腰の品定めをし、そして最後にキチンとブラッシングをした髪の毛の中心にとどまるのを見つめていた。ヒトラーが彼女の顔を見たがっているのが読みとれたので、彼は彼女に声をかけた。『おりておいで、エヴァ。お使いに行ってきてほしいんだ』 彼女は肩ごしに振り返ってホフマンと彼のわきに立っている男性を見た。そして二人に微笑みかけた。ホフマンはヒトラーがエヴァの顔が気に入ったことを、要するに気をひかれたことを、すぐに見抜いた。彼は梯子をおりてくる彼女にジッと見入っていた。ところが、彼女が床におり、二人の方に歩きだすと、ヒトラーはカウンターの上の何枚もの写真に熱心に見入っているふりをした。」

 (上巻) (p.58) 「エヴァはヒトラーのとなりの椅子にすわり、小さなグラスにビールをついでもらい、ソーセージを二本受けとった。ヒトラーは彼女とさりげなく話そうとしたが、かしこまった感じがした。彼はいつものことで、男女を問わず、誰が相手でも、軽い調子で話すことができなかった。幸いなことに、エヴァは明るく軽い調子で誰とでも話しができた。彼女の年頃の娘にしては珍しいことだが、彼女は自分のとなりにすわっている”年配の男”が、くだけた態度をしようとしているのだが、どうしたものかわからずにいることをすばやく見抜き、自分の方から心をくばっていた。」

 (上巻) (p.62) 「エヴァが、ヒトラーの名前を夕食のテーブルで無邪気に口にすると、彼女の父親は怒りたけった。『ヒトラー?お父さんは彼と道の同じ側を歩く気がしない。彼は狂信者だ!』」

 (下巻) (p.116) 「いまやヒトラーが無敵でないことがはっきりするとともに、彼の仲間の多くは総統や第三帝国のことより、自分の今後の身の上を考えはじめるようになった。しかしエヴァは、状況が悪化すればするほど彼に対する支持を強めていった。ヒトラーの側近は、たがいに疑い合うようになるにつれて、総統の指導力にも疑問を、もちはじめ、彼を暗殺する計画すらたてられたが、エヴァは沈みがちな彼の気力と自信をもりたて、ドイツ国民が思い描いている総統のイメージにふさわしい外観と姿勢を保たせ、さらには度かさなる怒りの激発の後に気持ちをしずめるために、あらゆることをした。これまで以上に彼女は、彼の動機や彼がおこなっていることの是非とは関係なく、自分の愛する人に献身した。彼が虚無感と破壊本能にとらわれるとき、彼女はいつも彼のわきにひかえていた。」

 (下巻) (p.133) 「エヴァが自分にとっては、戦場での新たな勝利よりも、あなたの健康の方が大切だ、と言うと、彼は彼女をながい間ジッと見つめ、やおら口をきいた。彼の両の目には、深く温かみのある光がさし、彼の声はやわらかくもの静かなものになった。『そんなことを言ってくれるのは、君一人だ。君だけだ、心配をしてくれるのは』 彼が人前でこんなにやさしい言葉をかけてくれたのは、これまでになかった。」

 (下巻) (p.150) 「彼が部屋を出ていこうとすると、エヴァが足ばやに歩みより、彼の両手を手にとった。悲しんでいる子どもに言ってきかせるように言葉をかけた。『しかし、ご存知でしょう、私はあなたと一緒にとどまります。私は絶対に離れませんよ』 その瞬間に、ヒトラーはエヴァのうえにかがみこむと唇にキスをした。同席していた者たちは、彼がこんなことをするのを見るのははじめてだった。」

20080905

ハインリッヒ・ヒムラー

● グイド・クノップ(著)高木玲(訳)(2001)『ヒトラーの共犯者(上)---12人の側近たち』 原書房





【ハインリッヒ・ヒムラー】 <実行者> (pp.151~212)



(p.156) 「ハインリッヒ・ヒムラーはなんといっても、一つの悪であった。彼は自発的な執行者であり、みずからは手をくださずして、何百人も殺害した。彼は現在でも〈いかにもドイツ的〉と思われる特徴をそなえた男であった。実際的で正確、義務感をそなえ、権威に従順、規律正しく、清潔であった。」

(p.160) 「『彼はつねに品行方正で、性格はきちょうめんな勤勉さを示した。』(1919年7月15日ギムナジウムの卒業証書)」

(p.156) 「彼の熱意と知性、きちょうめんで愛すべき性格は多くの成績証明書で強調されている。この少年に何らかの暴力的傾向が証明されたことなど一度もなかった。彼の同級生だったドイツ系アメリカ人歴史学者ジョージ・ハルガートンは、後に、この温和な級友をこんな風に回想した。『彼は考えられるかぎりでもっとも優しい仔羊だった。虫一匹殺せないような少年だった』」

(p.174) 「『ヒムラーは本来おとなしい印象の人で、自信があるとか、軍国主義的だとか、粗暴だとかでは、まったくありませんでした。彼はむしろ内気で小市民的な物腰の人でした』(トラウドル・ユンゲ:ヒトラーの秘書)」

(p.164) 「ヒムラーは愚かではなかった。しかし彼の批判能力には、どちらかといえば、限界があった。彼が求めたのは複雑で急速な世界の変化に対する単純な説明であった。」

(p.166) 「彼は歴史を自分の好きなように歪曲した。〈ご先祖ならこんなときどうしただろうか?〉というのが、問題の決定が待たれている時に、ヒムラーがよく口にした常套句であった。」

(p.168) 「ミュンヘン一揆の際、将軍廟へ向かう行進に加わったが、・・・目立たないヒムラーに国家機関の手が及ぶことはなかった。彼は小者とみなされていて、そのことで悩んでいた。『ぼくはただ口がうまいだけのおしゃべりで、エネルギーもない。ぼくは何をしてもうまくいかない』(彼の日記)」

20080904

マルティン・ボルマン

● グイド・クノップ(著)高木玲(訳)(2001)『ヒトラーの共犯者(下)---12人の側近たち』 原書房




マルティン・ボルマン  (pp.173~230)


(p.176) 「全国青少年指導者だったアルトゥール・アクスマンが5月2日の朝3時頃、レールター駅近くで重大な発見をした。ちょうど夜が明けはじめた薄暗い光の中で、彼はひとりの男がヴァイデンダム橋の線路に横たわっているのを見つけた。のぞき込んでみるとマルティン・ボルマンだった。見まちがうことなどぜったいにありえない、とアクスマンは語った。ボルマンは士官用上着に階級を示すものは何もつけていなかった。はぎとって、人物が確認できる証拠をすべて消し去ったのだ。死体に傷はないようだった。・・・1945年晩秋の尋問で、かつての全国青少年指導者の語ったことなど誰もまともにとり合おうとしなかった。」

(p.178) 「彼は舞台裏で働く男、まさに闇を求める男だった。総統の影になり、彼は同時代人の人々から身を隠していた。実際彼を知っていたのは、アドルフ・ヒトラーのごく近くにいる者たちだけだった。」

(p.193) 「マルティン・ボルマンに残されているものは何もなかった。彼に与えられた立派な肩書きの響きはよかったが、実際は重要なポストではなかった。彼に予定されている指揮権はこれから作り出さねばならなかった。・・・彼(ヒトラー)は側近たちが権力と影響力をめぐって争うのを好んだ。部下を争わせておけば、総統としての彼の地位はさらにゆるぎないものになった。」

(p.194) 「ボルマンは権力の定義が曖昧なおかげで逆にどこにでも積極的に参加できることをすばやく見てとった。調停人として働く者に、争っている者は情報を与え、とり入らねばならない。調停人はさらに、敵対者たちの駆け引きを把握し、傷ついている点を見つける。この関門で働く者は何を許可して通し、何を通さないかを決めることができるのだ。」

(p.196) 「メモ用紙と鉛筆をたずさえて、彼はたえまなくメモをとった。総統の副次的な言葉の一つ一つが彼には十分重要で記録しておくべきものに思われた。時がたつにつれ、ボルマンのメモ帳は山のように積み上げられた。ついに彼は専用のファイルケースを〈総統の言葉〉でいっぱいにした。・・・ボルマンはこのメモのおかげで、次第に自由裁量で独自の行動がとれる余地を増やしていった。ボルマンはメモを見出し語に従って整理してあったので、必要に応じて、適当な総統の発言を保存カードから引き出し、ちょっとした陰謀を働かせて、事態を彼にとって都合のよい方向にもっていき、順調に進めることができた。党員の中から出てくる批判など彼は意に介さなかった。というのは、どの場合も、この記録をもとに、適切な総統の言葉を用意していたからだ。」

(p.210) 「たとえすべての総統の指示が実行されてしまっても、総統はあいかわらず総統だ。彼がいなかったら、われわれはどこに行ったらいいのだろう。」

(p.221) 「1943年春、ヒトラーはついに彼を公に、実質的にはずっと以前からそうであったものに任命した。ボルマンを秘書長にしたのである。・・・平たくいえば、ボルマンを通してのみヒトラーは外界と接触するということだった。・・・いまやボルマンは蜘蛛の巣にいる蜘蛛のように、あらゆる糸を手にしていた。彼は強大な力をもつ特別な地位に昇進した。・・・独裁者はボルマンを最大限の賛辞で持ち上げた。『戦争に勝利するためにはボルマンが必要だ。ボルマンに反対する者は国家に反対しているのだ』」

(p.222) 「ソ連に侵攻する直前、ボルマンは迷って苦しんでいるヒトラーを元気づけて、戦いを開始せよという神意の叫びに従うよう勧めた。ヒトラーは忠実な協力者の言うことに耳をかたむけた。」 

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20080823

★なぜホロコーストを知りたいのか?

平和はただ祈っているだけで実現できるでしょうか?
世界に存在するネガティブとポジティブの両方のエネルギーを見つめましょう。

大気の諸条件によって、気候がたえず変化するように、
社会状況も常に変転しています。

歴史という女神は、表情をたえず変化させていて、片時もじっとしていないのです。
戦争と平和という両極の間にも、無限に変化するグラデーションがあります。

私たちは現在の平和に安住することなく、戦争の原因・様相・推移を研究し続けなければなりません。

平和のときこそ、余裕をもって、平静に淡々と、細部にわたり大局を鳥瞰することもできるでしょう。

ほんのちょっとの微細な兆候も見逃すことなく、暗雲の到来を察知したいものです。

雨が降ってきてからでは遅いのです。


戦争を研究するからといって、戦争を賛美したいのではありません。
むしろ正反対です。

平和教育は平和だけを説教していればよいのでしょうか?!

戦争の悲惨な体験を忘れないこと。
なぜ戦争になったかを研究すること。
敵と味方の両側の言い分を公平に観察すること。
百年千年のスパンで歴史を鳥瞰すること。
物質的な諸条件だけでなく、精神的な側面を解明すること。

そういうわけで、ホロコーストにフォーカスして、微細なところまで、観察していきましょう。

人間の光と闇の微妙な陰影を感知できるようになりたいものです。

人間の精神の高みと低みを鳥瞰したいものです。

決して手当たり次第というわけでもないのですが、
縁に従い、偶然の出会いを楽しみながら、
著者たちの真摯な表現を真剣に味わいましょう。


       
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